ピクセル宣言 - メタビットからネオアトムへ


私はピクセルとは現実と仮想の境界線を行き来する「扉」と考えている。

これまでのポストモダンはMITメディアラボの創設者であるニコラス・ネグロポンテが1990年代に述べた「アトムからビットへ」の時代であった。つまり、物質(アトム)社会から情報(ビット)社会への遷移が2000年代までにあった。当時、ピクセルとは現実から仮想への扉であり、この時期にビデオゲーム的なリアリティを伴って制作を始めた、現在で言うところの「ピクセルアーティスト」が登場する。ドット絵のビデオゲームを模して現実社会を油彩で描く馮夢波(1966-)やNESカートリッジを改造して本来のビデオゲームとは別の社会的意味に変換するコリー・アーケンジェル(1978-)などが初期のピクセルアーティストと呼べる。尚、ストリートアーティストのインベーダー(1969-)はピクセルを物質のタイルで表現し現実のストリートに出力するという手法がユニークだが、彼の作品自体はポストモダンへの批評性が弱く、シミュレーショニズムの文脈でもない。現在のSNSで多く散見される二次創作のドット絵という性格のものも多く、私の中ではピクセルアーティストと呼べない。彼はドッターである。

私たちの生活にインターネットが浸透した2010年代、そしてIoTが当然となりVRやARなどxR技術も身近になった2020年代、仮想は現実に重なる。これは、私たちの社会が「ビットからアトムへ」の時代に向かっていることを意味する。現在、ピクセルとは仮想から現実への扉であり、社会はビットを超えて新しいアトムを求め始めている。

近年、デジタルアートはNFTの登場により、思想家のヴァルター・ベンヤミンが1936年に著した「複製技術時代の芸術」において考察した「アウラ」(のようなもの)を獲得した。ベンヤミンは1940年に亡くなっているためデジタルコピーもインターネットも知らない。アウラは現代において複製できることを知らない。ただNFTが獲得したのは「アウラのようなもの」である。アウラは現代において複製できるので特に価値あるものではない。NFTが獲得したものはアウラに近い新しい「何か」である。これは現代における新しいアトムの表出と考えられる。私たちはかつての物質社会には二度と戻れない。この事実に自覚であれ無自覚であれ、私たちは仮想が重なった現実社会でしか生きられない身体となっている。実際のところ、私たち自身が既に新しいアトムなのである。

私はNFTが獲得した「何か」を、二度と戻れない私たちの「故郷」と考えている。未来から現代を観測した時、ブロックチェーンに記述されるメタデータは改竄されることのないデジタルアートの故郷である。私たちはピクセルという扉によって現実と仮想の境界線を行き来できるが、同じ場所を行き来している訳ではない。私たちは未来に対して非可逆であり、別の現実⇔別の仮想を行き来し続ける。NFTアートにピクセルアートが多いのは、私たちが見つけられない故郷への扉をずっと探し求めていることを意味するのではないだろうか。

ピクセルアートが描くのは懐かしい未来であり、決して懐かしい過去は描けない。私たちは故郷(メタビット)を想いながら、異郷(ネオアトム)を旅する。現代とは未来のレトロゲームであり、世界は開発中のものである。


真名井良秀 / EXCALIBUR